これまでの物語

2024年9月にECサイトオープンとともにスタートする、ちよはち商店。

代表 田中がこの事業を始めるに至るまでの物語を語る上で外せないのが、帰鹿するまで滞在していたマダガスカルという国です。

マダガスカルに降り立ったのは2019年10月。そこから2024年4月まで大半の時間を現地で過ごしました。

(当時はここでの経験が、地元鹿児島への思いを強くするとは微塵も予想せずに...。)

田中をマダガスカルへ導いたものは何だったのか、というところから、マダガスカルで感じていたこと、そして帰鹿してこの「ちよはち商店」を始めるに至るまでの道のりをご紹介していきたいと思います。少し長いので、お時間のある時にお読みいただければ嬉しいです。

 

 

目次

1. 代表をマダガスカルへ導いたもの
2. 現地の生活と、そこで得られたもの
3. 感情・人生観の変化
4. 帰鹿・ちよはち商店開店へ

 

1. マダガスカルへ導いたもの

 マダガスカルに行くきっかけとなったのが、2019年の春過ぎ頃から芽生えてきた感情にあります。当時は日本でメーカーの会社員として営業担当をしておりました。

営業ですので、業務には常に売上目標が与えられます。会社はそもそも利益を追求する存在、しなければ生き残れないのが資本主義世界ですので当然のことです。

私がメインに扱っていた商材は「肥料」、農業で使ういわゆる「肥し」だったのですが、私が直面してたのは生産者年齢の高齢化に伴う肥料需要の減少でした。

最終的な肥料の使用者である生産者の高齢化が進んでおり、引退される方も出てくる中、売上を伸ばしていくことは非常に困難でした。

そんな中、自分は営業マンとしての役割を果たすために生産者の方との対話は常に続けておりましたので、田中が営業に伺うと、義理で購入して下さる方も多くいらっしゃいました。

もどかしい状況の中で、学生時代に抱いていた志があることを思い出しました。

「海外、その中でも途上国で広く人々の生活を豊かにできるような仕事をしたい」

当時勤めていたメーカーも海外事業を展開しており、そもそもの入社動機もその思いを実現するためでした。ただ、入社してみると、そのポジションにつくまでは10年単位の長い年月が必要であることに気が付きます。

「これ以上待てない」

当時26歳だった自分は、思い切って環境を変える決意をします。大学院時代に数か月途上国に滞在して研究をした経験と、多少英語が使えること、営業担当になる前は本社で損益管理の仕事をしていたこと、、等を掛け合わせて自分がチャレンジできそうな求人を探しました。

すると、「アフリカ マダガスカルで日系インフラ企業の経理財務担当」という求人を見かけました。しかも携わるプロジェクトは大規模なもので、当国の中でも注目度の高い事業のようです。

その時は、

「マダガスカルというとアフリカの最貧国で、そこで大きなインフラ事業に携われるなら自分の思いも実現できそうだな。。でも採用基準が高そうだし自分じゃ厳しそう。」

そんな思いでダメ元で応募してみると運よく採用が決まり、マダガスカルでの生活が始まることとなりました。

 

 

 2. マダガスカルの生活と、そこで得られたもの

いざマダガスカルでの生活が始まってみると、仕事でも仕事以外でも驚きの連続でした。

仕事に関して言えば、自分はマダガスカル現地オフィスで経理財務チーム(5~10人程度)を指揮する役割を任されていたのですが、部下に日本人はいません。大半を占めるマダガスカル人スタッフと、数名の別プロジェクトの経験のある東南アジア人スタッフというような構成でした。

そんな環境の中働き始めると、日本人と非日本人の違いを実感することになります。

例えば、内部の業務手順の策定。

日本の大半の組織であれば、一度ルールを決めてチームに周知すれば徐々にそれが当たり前になり、逸脱する事例は少しづつ少なくなっていきます。

しかし、日本人ではないメンバーだとコミュニケーション言語が英語になるので考えを伝えること自体が簡単ではないのに加え、一度ルールを決めて軌道に乗ったかと思えば、他のことに注力している間にいつの間にか元の無秩序な状態に戻っている。。といった具合でした。
(ちなみにマダガスカルの公用語は「マダガスカル語」と「フランス語」なので英語が堪能な人間は少ないです)

多国籍な組織をまとめていたといえば聞こえは良いですが、特に最初の2年はコロナの影響もあり、日本人の常識や観念が通用しない部下と向き合いながら、一つの組織として構築していくのは非常に困難な作業でした。

沢山の壁と、それを乗り越えるための試行錯誤の末、滞在2年を過ぎたあたりから、ようやく思い描いていた形に近いチームとして機能し始めます。

マダガスカルで得られたもの、それは業務面のスキルで言えば、非日本人が中心の多国籍な組織での立ち回り方、および組織の構築の仕方といったところでしょうか。

 

 

ただ、それは人生の中ではそれほど大きなことではないと、今は思っています。むしろ、業務から離れた場面で重要な学びや気づきを得ることができたように思えます。

現地で印象に残っているのが、マダガスカルの深刻な貧困問題と経済格差でした。

マダガスカルという国は一人あたりの所得が世界最低水準の最貧国です。統計によって若干の差はありますが、国民の大半が1日2ドル以下の貧困状態で暮らしています。

田中が住んでいたのは当国では比較的産業の発展した地方都市の中心部でした。それでも、一歩宿舎を出ればあちらこちらにホームレスの人たちがおり、子供を抱える女性も頻繁に見かけました。「住」はもちろん、明らかに「衣」「食」も不足している様子でした。

都市の中心部から離れれば貧困の具合はより鮮明で、人々は土と藁を使った簡素な茅葺きの家に住み、十分な衣服はまとっておらず、生活用水は川や雨水を利用しているようでした。

その一方で、外国人(田中も例外ではない)や一部の富裕層は安全の確保された頑丈な建物に住み、外国人向けのスーパーで質の良い生活用品(多くがフランス製)を購入し、子供には外国資本のスクールで将来の可能性を広げるための教育を受けさせている、といった相対する状況もありました。

「これが最貧国の現状か。。自分が従事するプロジェクトが少しでもこの国の人々の生活水準の向上に繋がってほしい...。」

マダガスカルで生活し始めて感じた当時の心境を今でも覚えています。

 

 

根深い貧困と経済格差、そんな環境下で生活する人々を目の当たりにして、そこから得られたものといえば、「生き抜く強さを持つこと」と「国民としての誇りを持つこと」の大切さに気づいたことだと思います。

国民の大多数が貧しい生活を送り、貧困以外にも、気候変動による食料危機など様々な問題を抱えているマダガスカルですが、人々の姿はいつも逞しく、生きることに必死で貪欲でした。

現地に来るまで日本で安定した会社員生活をしていた自分は、仕事には全力で取り組んでいた自負はあるものの、日常的に生きることに必死になる必要がなかった分、無意識のうちに力をセーブして生きていたのかもしれない、と思わされました。

 また、マダガスカルには人種的にも宗教的にも様々なバックグラウンドを持つ人々が混在していますが、一人ひとりの心の中にマダガスカル人としての誇りが垣間見られました。6月26日が当国の独立記念日であり、その日が近づくと各々の家の前や窓から国旗が掲げられ、皆が一体となって国家の独立を祝福していました。

私たち日本人にはいつの間にか馴染みが薄くなってしまった「愛国心」や「国の誇り」といった言葉。それがあってよい、抱いてよいものなのだということを、マダガスカルの人々が教えてくれたように感じます。

 

3. 感情・人生観の変化

マダガスカルでの経験は、ある意味、私が学生時代に思い描いていた目標を実現するものであり、苦しいことも多かったですが、働いているときは充実感も感じていました。

携わっていたプロジェクトの規模が大きかったこともあり、間接的な影響を含めれば数万人の人々の雇用を生み出していたと思います(あくまで個人的な感覚です)。

そういった事業を裏から支え、プロジェクトに資金的な問題が発生しないよう常に先を見据えてお金の流れに気を配るといった役割を自らが担うことができたのは、人生においても大変貴重な経験であり、マダガスカルにこなければ後にも先にも無いことだったでしょう。

また、雇用された現地の人々の大半が当初は徒歩で通勤していましたが、それが徐々に自転車であったりバイクに変わったりと、目に見えて生活水準が上がっているのも感じていました。

街にも新規の出店が相次ぎ、特にコロナの影響が落ち着いてからは街全体に活気が溢れてきているのを感じていました。

「マダガスカルという国に、この国の人々に、少しは貢献できているのかな...。」

もちろん、あくまで私は組織の中の一人に過ぎず、個としての力は本当に微力で、一人で国の状況を変えるなど当然不可能ですが、組織の中で自分ができることを全力で取り組んでいくうちに、この国へポジティブな影響を与えることができている微かな実感がありました。

 

 

苦悩と充実感が入り混じったマダガスカルでの生活が続いていき、気が付けば丸4年以上が経過していました。学生時代に思い描いていた「途上国で広く人々の生活を豊かにできるような仕事をしたい」という目標も、プロジェクトが進むにつれて、いつの日かそれが日常になり、毎日の業務に特別な感情を抱くことが難しくなってきていたのは事実でした。

そしてその頃には、自分自身の感情・人生観が変化してきているのを感じました。

もともと、マダガスカルに渡航することが決まってからは、これ以降もずっと海外でキャリアを歩んでいくことを考えていました。当事業でスキルを身に着け、いづれは国際機関のような組織で働くことを目指していました。

そんな人生プランをもっていた自分が、4年以上の時を経て優先したいと考えるようになったもの。それは「故郷 鹿児島への貢献」です。

「アフリカで貧困削減に貢献する」
「紛争地域で人道援助に携わり、命を救う」

こういった志は非常に崇高なものであると思いますし、自分が目指す道もそちらであると信じて、しばらくはマダガスカルで働いてきました。しかし海外で働くうちに心の中に浮かんできた思い。

「自分はこれから誰のために働いていきたいのか? 貧しい国の人々のため...? いや、それも素晴らしいことだけど、違う。これからは日本のために働きたい。特に自分が育った鹿児島のために。」

学生時代に抱いていた志を実現するために、半ば強引にキャリアチェンジしてやってきたマダガスカル。それから月日が流れ、4年半が経過しようとする時には逆に故郷への思いが増すという結果になっていました。

「鹿児島に戻って働こう。マダガスカルの人々が母国に誇りを持っているように、日本や鹿児島に誇りを持って。」

そのような気持ちで日本へ戻る決意を固めました。

 

 

4. 帰鹿・ちよはち商店開店へ

2019年10月に始まったマダガスカル生活も、2024年4月をもって終わりました。

日本にいては決して抱くことの無かった感情・見る事のできなかった景色・・・

この国が、この国の人々が、自分に与えてくれたものに心からの感謝の念を抱きつつ、異国の地でやりきったというすっきりとした気持ちも持ちながら、マダガスカルから日本へ繋がっていく国際線の飛行機に搭乗しました。

 

 日本に帰ってから当面の間は、すぐに働くことはせず、勉強中心の生活をする予定でした。というのも、今後生きていくにあたって、鹿児島や日本に貢献していくためにも、より強い専門性が必要だと感じ、国家資格を集中して取得しようと計画していたからです。

そうやって勉強漬けの生活を続け、帰国してあっという間に2か月が過ぎようとしていた頃、その半年ほど前に一時帰国した際に出会った、自営業を営む同級生にこんなことを言われました。

「鹿児島の特産品や工芸品を中心に扱うECサイトを作ろうと思うんだけど、一緒にやらない? 」

自分としては、鹿児島で働いたこともなく、ITに関するスキルも何も持っていなかったので不安はありましたが、何かピンとくるものがありました。帰鹿した当初の計画を変更してでも、挑戦する意味のあることだと感じました。

「分からないことだらけだけど、鹿児島に貢献できる可能性のある取り組みだし、どのような結果になってもその経験は無駄にならない。やってみよう!」

そうやって、この「ちよはち商店」が始まっていくことになります。

その後二人で話し合った結果、マダガスカルから帰鹿するまでに至った強い思いから、田中が代表に就くことになりました。

 

私たち「ちよはち商店」の物語はまだ始まったばかりです。 

鹿児島がもつ可能性を広げる役割をほんの少しでも担えたら・・という希望のもと、僅かながらでも歩み続けていければと思っています。

どんなエピソードがこれからここに追記されていくのかは、私たちにも分かりません。

地のものを通じて作り手と使い手を繋ぎ、豊かな暮らしを提供する。
鹿児島から人々の生活を彩る

そんな私たちの物語を見守っていただければ幸いです。
長い文章をお読みいただき、ありがとうございました。

ちよはち商店 代表 田中陽大